木目1

建物と歴史

▼本堂 ▼位牌堂 ▼開山堂 ▼庫裡
▼山門 ▼観音堂(慈雲閣) ▼稲荷堂 ▼鐘撞堂・梵鐘
▼放光塔(忠霊塔) ▼飯岡寺観音堂 ▼境内地 ▼寺宝・文化財・歴史上の遺物
▼環境保護地区の指定

和紙本堂
 開山当時の建物は享保十四年(1729年)の大火に見舞われ、堂塔・佛具・過去帳等を焼失。十世代に再興されましたが、明治十七年(1884年)大火に遭い、さらに明治三十一年(1898年)九月二十三日に焼失、現在の本堂は大正五年(1916年)建立されたものであります。本 堂は木造平屋建瓦葺で、面積は四百三十六平米(132坪)であります。




 本堂は釣天井造りで、大間の天井には眞野暁亭の筆になる龍の墨絵があり、東西の堂中の襖には十六羅漢の墨絵があります。また、東側の襖の裏側には竹林の七賢人の墨絵が描かれてありますが、いづれも眞野暁亭の筆になるものであります。







 本堂内陣の天井には21世和尚の筆になる花鳥の絵があります。住職海野家は画人家柄で、海野梅岳・三岳の作品をはじめ近年では岩手大学で教授をつとめられた海野経は先代の弟にあたられる。













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和紙位牌堂
 昭和四十七年に建立され、鉄筋コンクリート造二階建、一階は半地下構造で納骨堂となっており、二階が位牌堂となっています。面積は二百七十平米(82坪)であります。


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和紙開山堂
 本堂と共に建立され面積は七十二平米(22坪)であります。


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和紙庫裡
 大正末期に建てられた建物は老朽甚だしく、昭和六十一年に発願、平成八年五月完成しました。鉄筋コンクリート二階建、鉄板瓦葺、面積千四百九十九平米(454坪)一階八百七十七平米(266坪)、二階六百二十二平米(188坪)で、法事・集会に充てるため二階に大広間七十五畳(2室に使用可能)と大講堂百三十三平米(40坪)があります。


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和紙山門
 楼門で総けやき造、銅版葺で昭和八年建立されたもの。久昌寺二十一世和尚の発願で、当時大圓寺(下閉伊郡川井村小国)の住職であった二十二世和尚に命じ伐採した欅で建てられたもので屋根から扇状に突出する「扇たる木造り」が特色であります。山門の周囲には数々の彫刻をはめこみ、扉には「天女」が彫りこまれ、大蟇肢には「牡丹に鳳凰」が、扉の両側には「昇り竜」「降り竜」が彫刻されてあります。山門楼上には「十六羅漢」を奉祀し、漢訳の大蔵経が納められています。

 山門の鯱は南部家からの下賜の盛岡城乾の門の由緒あるものと言い伝えられていたが、長年風雨にさらされ、破損が著しく、平成八年三月補修のため取り外し調査したところ、言い伝えにたがわず、木彫りの鯱にこれの保護を意図したごとく、銅板で鯱を型どり覆工されていました。木部覆工部ともに腐食・破損が甚だしく、補修復元後再び風雨にさらすに忍び得ず、庫裡玄関に保存されています。現在の鯱は代替のものを求め設置してあります。



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和紙観音堂慈雲閣
 明治三十五年(1902年)に建立された旧堂宇は、老朽甚だしく平成八年に庫裡とともに改築されました。木造平屋建・重層屋根・大唐破風様式で面積は四十八平米(14.5坪)であります。観音堂には盛岡三十三観音の二番札所として、七体観音菩薩と、なぜか今は廃寺となった仰接庵より安置された十番札所の白子観音菩薩が祀られているほか、津島天王・三宝大荒神が合祀されています。また、堂内の太鼓は南部の角土俵当時に使用された由緒ある太鼓で、南部家から下賜されたものであります。


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和紙稲荷堂
 旧霊祀は経年汚損は甚だしく庫裡と同時に改築、平成九年八月完成しました。祭神は穀倉稲荷大明神であります。また工事の際、旧霊祀の礎石に使用されていた石柱に正徳二年(1712年)の刻字がありました。


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和紙鐘撞堂・梵鐘
 鐘擡堂は大正五年立てられたものでありますが、梵鐘は昭和十七年戦争たけなわとなり、鉄等金属類の献納を強要され、止む無く供出、現在の梵鐘は昭和四十六年、藤田喜平代の発願で寄贈されたものであります。その銘文は次のとおりであります。

「伽藍鎮境」「華鯨釣楼」「禮楽茲備」「響處入流」「青山畳々」「白雲悠々」「天長地久」「佛日千秋」

維時: 昭和四十六年十二月吉日
管衣: 勅賜正応天眞禅師
大本山総持寺独住十九世
絶海勝俊 敬白
奕葉山久昌寺二十二世 俊海義雄代
願主: 藤田喜平 檀徒一同
梵鐘高: 百八十糎
直径: 七十三糎
重量: 六百キログラム


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和紙放光塔(忠霊塔)
 元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものであります。


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和紙飯岡寺観音堂
 今から三百年ほど前、和賀・稗貫・紫波三郡に三十三観音の札所が設けられましたが、花巻の清水寺を一番札所とし、市内上飯岡の萬福寺(現在は廃寺となっている)の千手観音が九番札所とされておりました。久昌寺は萬福寺の縁の寺であったことから、何時の頃からか久昌寺で安置されることになっていました。しかし、昭和五年に元の上飯岡の現在地に堂宇を造り移設安置されたものであります。


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和紙境内地
五千平米(1515.4坪)


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和紙寺宝・文化財・歴史上の遺物
<佛像>
地蔵菩薩坐像(平成二年五月、盛岡市指定文化財として指定される)
 本堂西側にある祠堂に安置してあり、この地蔵菩薩坐像の像容は、地蔵菩薩の通形で声聞形といわれ、比丘(僧)のお姿であります。額に白毫がつき、眼は切付描眼で、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せて蓮華座に結跏跌座しておられます。右手は臂を曲げて施無畏印風に錫杖を握り「矢田地蔵尊」と同じ様式となっています。佛家における行道を表しています。左手掌上に宝珠を奉待するのは、古式の像容を継承するもので、右手の二指、五指の第一関節が欠損し、左手の第一間節が亡失しています。いわゆる安阿弥様の地蔵菩薩像で、写実的な像容のものであります。衣文の彫りが深く、当初の彩色もかなりのものであったと思われますが、大分剥落して胡粉下地が露出しています。江戸中期以前の京佛師の作とみられる優作であります。

本尊 釈迦年尼如来坐像
  寄木造の漆箔像で全高百三十一糎、座高四十一糎で通形の釈迦如来坐像で、肉髻・白毫がつくが珠は欠落しています。眼は伏眼で玉眼が入り、相好は穏やかな慈悲相をなし、印契は定印を結んでいます。天衣は通肩、衣襞は翻波文式となり、ほぼ左右対照となっており両足はそれぞれの膝上に載せ結跏跌座でおります。

三観音坐像
一. 如意輪観音坐像:これらの佛尊は江戸末期に活躍した土澤(現、東和町土沢)の佛師菊池勇治が制作したもので、同佛師の注文控帳によれば五観音と記録されていますが、現存しているものは三躰で、いずれも観音堂に安置されていま す。寄木造りの漆箔像で全高六十一糎、座高五十六糎の通形の一面六臂像であります。
二. 准胝観音坐像:前者と同じ使様のもので、座高五十八糎の一面十二臂像で臂の多くは欠失しており、火災のときに漸く運び出した様子が想像され、三体の中で最も傷みが酷い状態です。子安・延命を祈願する佛として六観音の仲間に定着した観音様です。
三. 馬頭観音坐像:同じ仕様のもので、座高六十三糎の一面三目の三面八臂の像であります。前二者と同様に光背・台座を失っています。馬頭観音は八大明王の一つでもあり、馬頭明王・馬頭威怒王などと称されます。調伏・除病・天変地異の止息・内憂外患の排除などに効能のある佛尊として信心され、世俗的には馬の安全祈願・追福供養として祀られています。

観音菩薩半跏像
  寄木造りの漆箔像で、座高七十四糎のもので頭部は巻き上げの高髻で、玉眼入りの伏眼、豊頬はかすかに笑みを湛えています。なだらかな肩、緩やかな衣裳と裳先の皺の強調した表現は古風で、天衣には菊文・カタバミ文を彩色しています。半跏倚坐の像ですが、台座は亡失しています。当時の尊像の中でも出色の出来栄えの佛尊であります。

屏風
  花鳥図六曲一双屏風:紙本着色、屏風仕立てのもので、縦百七十四.五糎、横三百五十七.六糎の大きさで、右双には桜・松・牡丹などの花弁と尾長鳥・鳳凰の鳥を描き、左双には松・牡丹・孔雀などの花鳥を四条派風の作風で描かれています。作者は田鎖鶴立斉で安永二年(1773年)六月十二日盛岡に生まれ百七十六石を禄した武士でしたが、画才に秀で藩主利敬公に引き立てられた画人であります。

達磨図
  紙本着色と水墨の達磨図の大幅・小幅合わせて三点で、本堂の天井に"竜図"を描いた眞野暁亭の二点と先住の海野三岳の描いたものであります。眞野暁亭の描いたものは、紙本水墨の軸装仕立てのもので、本紙は縦百九十糎、横百三十八糎の大幅であります。濃淡と潤渇、緩急と没骨、自在極まりない筆法で描き切り、達磨大師の鋭い眼先と気迫が凄絶であります。眞野暁亭は江戸の人ですが盛岡には多くの作品が残っています。


<埋蔵文化財>
 埋蔵文化財の包蔵地とされていた大慈寺町寺町地内は庫裡改築工事にあたって発掘調査を指示され、平成七年四月より盛岡市教育委員会により調査された結果、平安時代の住居跡八棟、土坑二基、江戸時代以前の堀立柱建物跡一棟、その他柱穴群が百二十箇所、土器破片少量などが発掘されました。


<庚申塔>
 盛岡市最古の庚申塔で享保十七年(1732年)に建立されたものであります。


<墓>
 キリスト教禁制時代の信徒の墓石は寛文二年(1625年)に建立されたものであります。


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和紙環境保護地区の指定
久昌寺境内を含む寺町一帯は、昭和四十八年盛岡市環境保護地区に指定されました。

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曹洞宗 奕葉山久昌寺

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